STORY

物語

青唐辛子が紡ぐ116年の歴史

新ばし江戸銀
百十六年の想い

新ばし江戸銀の創業は1908年(明治41年)。
初代 鎌田銀次郎が、東京・新橋で魚屋を始めたのが新ばし江戸銀の始まりです。

当時、一般家庭には調理道具や冷蔵庫がまだ普及しておらず、
お客様からは「焼いといてくれ」「煮といてくれ」「刺身にしといてくれ」といったリクエストが多く寄せられました。

昔は新橋駅が東京の入り口であり、汽車の終点でもあったことから、
江戸前の一品料理を提供する割烹料理屋に変貌しお店の裏には鎌田旅館が誕生しました。

その旅館には、銀次郎の料理が評判だったこともあり、現在のホンダの創立者である「本田宗一郎」氏、 二代目社長の「河島喜好」氏などが本田技研の指定旅館として利用されるなど、多くのお客様に愛されました。

そんな中、二代目の祖父が33歳で亡くなり祖母がお店を継承、
日本で初めての女性ふぐ調理師免許を取得しました。

その活躍が昭和の美食家として知られる「北大路魯山人」氏、小説家の「内田百閒」氏などから注目を浴び、
東宝映画『女心はひと筋に』の映画の舞台に描かれ、多くの著名人が訪れ交流を深めました。

伊豆諸島との
深い絆

高校時代から趣味でよく訪れていた伊豆大島や新島で食べていた、べっこう漬けとべっこう寿司。
当時は珍しかった青唐辛子の刺激的な辛さに衝撃を受けたのを、今でも鮮明に覚えています。

この味こそが、二代目である祖母が北大路魯山人氏たちとの旅行で伊豆大島を訪れ出会った「べっこう寿司」。
のちに新ばし江戸銀のまかないになっていったのです。

こうして「べっこう寿司」をルーツに持つ「青唐べっこう漬け」は、祖母から私へと受け継がれました。

家業の危機、
江戸っ子の決意

新ばし江戸銀の歴史は、常に順風満帆だったわけではありません。

三代目の父・鎌田榮太郎は、二代目当時のお客様である「川島社長」が、
鉄兜に色を塗ってオートバイに乗る姿に魅せられ、オートバイ用ヘルメットメーカーとして
世界的なブランドにまで成長した『SHOEI』の創業をするも、1992年に倒産するという苦難の時期がありました。
倒産の影響で店舗のあった新橋駅前のビルや自宅を失った私たち家族。
しかし私は、曾祖父の代から守り続けてきた「新ばし江戸銀」の看板だけは守り抜こうと決意します。

四代目として、『新ばし江戸銀』『江戸前ビストロ EDOGIN』『Bistro Ojiki』とやってまいりました。
この百余年の歴史に支えられた『江戸っ子の心意気』は変わることなく、
この「心意気」見守ってやって下さいますようお願い申し上げます。

HISTORY

沿 革

1908年(明治41年) 新橋銀座口に初代 鎌田銀次郎が魚屋『新ばし江戸銀』を開業
1938年(昭和13年) 二代目 鎌田國太郎が没後、二代目として鎌田久江が後を継ぎ、日本初の女性ふぐ調理師免許取得
1953年(昭和28年) 東宝映画『女心は一筋に』で新ばし江戸銀と二代目・三代目が映画舞台主人公に
1973年(昭和48年) 新ばし江戸銀 三代目として鎌田栄太郎が継承。SHOEIヘルメットを経営しながら江戸銀の地下に『ビストロedo』を出店
1992年(平成4年) 新ばし江戸銀 四代目として鎌田髙生が継承。『新ばし江戸銀』『江戸前ビストロedogin』『Bistro Ojiki』を出店
2024年(令和6年) MakuakeからAOシリーズ「青唐べっこう漬け」と「青唐べっこう寿司」の販売告知開始